自分の中の大人を殺す
高校生の時、AppleのYoutubeチャンネルの新海誠監督のインタビュー動画を見て、
その言葉に感化され、すぐさま親に「創作活動をするために、MacBookが欲しい」と頼み込み、高校の卒業祝い、これから先のすべてのお年玉・誕生日プレゼントと引き換えにMacbook Proを買ってもらいました。
タイミングとしてはコロナが現れる3か月ほど前のクリスマスだったはずです。
それからはWeb小説を書いたり、ブログをやったり、プログラミングをやってみたりといろいろなものをかじり、ひろゆきさんとかキングコング西野とか、クリスの部屋を見たりするようになりました。
その頃には「学生なのにすごいね」と言われることが増え、
最初の頃は単純に嬉しいと思っていました。
それまでほとんど褒められた記憶がなかったのですから、
それはそれは新鮮で嬉しかったです。
そして、コロナが現れ良くも悪くもまとまった時間ができました。
ここからの2か月間はかけがえのないものになったといえるほど、
充実していたと思います。
情熱を持って、なりたい自分を想像して、
ただ好きを形にしようともがいて、自分を磨く。単純に楽しかった。
けれど、3か月目に入ってからWeb小説の中の登場人物が想像と離れていってしまって、ブログのビューはずっとゼロで書くことも思いつかず、これは金になる!と思いついたシステムのプログラムもかけず、
理想の姿になれないもどかしさを感じて、自分が嫌になっていました。
でも、「学生なのにすごいね」という評価はされる。
大人たちはこんなレベルの低いものをみてなぜ凄いという言葉が出てくるのか、
「学生なのに」という言葉がなぜ出てくるのか、
大人はみんな僕のことをバカにしている、なめている。そう思いました。
結局、4か月目あたりからたまに文章を書くだけで、
基本的には知識だけ蓄えるようになりました。
そして、3年前に社会人を始めると、たまに書いてた文章すら書かなくなりました。
しかし、社会人になると、動画やポスターを使ったスポーツのPRが仕事になり、
いままでやってきたことを全て活かせる!そう思って、やる気を漲らせていました。
でもどうでしょう。
それはダメだ、あれはダメだ、見づらい、分かりづらい。修正しろ。
何度も何度も修正して、でもOKはもらえない。
しばらくして、こだわりや感性を捨てることで一発でOKを貰えるようになりましたが、
「あ、つまんねぇ。でも、これが正解か。」
妥協を覚えて、多少大人になれた実感を得ました。
同時に、「学生なのに」の正体がわかりました。
大してなにもやってこなかった自分の学生時代と目の前にした学生を見比べて、
「お前の方がすごい。でも、それは仕事にならない。お前はレベルが低い。」
そういう気持ちをすべて含めて「学生なのに」という言葉になる。
つまるところ、凄いねと言いながら、
実は誰も評価などしていなかったわけだ。
対等な立場に上げず、決めつけて、押し付けて、自由な活動を止め、
いとも簡単に何も考えず、経験を盾に個性を潰す。
ならば僕は、僕の中にある大人を殺し続けたい。
けど、そんなんじゃないでしょうよ。大人ってのは。
対等な立場で評価して、個性を潰さず未来を創る。
大人は子供の未来を軽率に潰しちゃあいけない。
今一度、感覚で口から出している言葉を、経験から言うアドバイスをスタンスを疑ってみようと思う。
現実を知った者の言葉は、悪意もなく善意で夢を潰してしまうものだと受け入れて、
疑って、言葉を吐く。託す。僕はそんな”大人”を目指そうと思います。
大事なことを忘れていました。
言葉を託すのはいいが、努力をすることまで学生に託すな。
他人事にするな。自分を見ろ。
そう怠惰な自分に言い聞かせたいと思います。